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キンバエ類 (写真U-1〜6)
 ヒツジキンバエ Lucilia cuprina
 ヒロズキンバエ L.sericata
[釣り餌名:さし、さばさし、紅さし、バターウォーム、ワカサギウォームほか]

 「さし」は、古くからウグイ、オイカワ、ワカサギなどの釣り餌として多用されてきた。その正体はキンバエ類のウジである。100〜150匹ほどをオガクズとともに小袋に入れて、50〜100円程度で四季を通じて売られ、 「赤虫」と並んで最も安価な商虫でもある。

 キンバエ類は動物の死体や糞に発生する不潔なハエで、昔は釣り人たちが魚屋からもらってきたサバの頭を野外に放置してウジを発生させて用いたところから「さばさし」とも呼ばれている。

 キンバエ類は種類が多く、この自家生産の方法では複数の種類のウジが発生するのが普通である。しかし、ぼくが釣り餌のことを調べはじめた1980年の後半に、東京や自宅に近い土浦市とつくば市の何か所かの釣具店で求めた「さし」(写真U-1右)と、 それを赤く染色した「紅さし」(写真同左)を飼育し、羽化した成虫を前出の倉橋弘氏に同定していただいたところ、それらはすべてヒツジキンバエ(U-5)ただ一種であった。 他種が混入していない事実は明らかに売品の「さし」が人為的に養殖されたものであることを意味する。

 ところが後日、これを紹介したぼくの報文を見て、ある雑誌記者が取材に来た(前述の「クロバエ類」の項参照)。雑誌で"釣り餌の虫の親(成虫)の顔"を紹介したいという。その記者は文系出身にしては感心なことに、 東京池袋の釣具店で購入したいくつかのウジを自分で飼育し、羽化したハエを国立科学博物館の友国雅章氏に同定を依頼したという。記者が入手したウジは標記の各商品名の「さしグループ」と前述の「ジャンボウォーム」であったが、 これらのうち「さしグループ」の同定結果はいずれも別種のヒロズキンバエ(U-6)であった(注10)。

 「ヒツジ」と「ヒロズ」―この倉橋氏と友国氏の同定結果の違いはぼくを困惑させた。「バターウォーム」と「ワカサギウォーム」(写真U-2〜4)は近代の商品名で、ハヤとヤマベ用という前者は「さし」に油(バター?)を塗っただけのものであり、 後者は「紅さし」の同種異名と考え、ぼくは倉橋氏への同定依頼を怠った経緯がある。しかし、「さし」や「紅さし」まで含めて友国氏によってすべて「ヒロズ」と同定されたのは意外であった。

 そこで翌年、くだんの雑誌記者から聞いた池袋の釣具店で同じものを求め、羽化した成虫を倉橋氏に再同定していただいたが、結果はすべて前回と同じく「ヒツジ」であった。「ヒロズ」と「ヒツジ」は形態がよく似た同属のキンバエ類であるが、 専門家にとっては区別点が明瞭な由で倉橋氏か友国氏が誤同定をすることはありえない。また友国氏からは、雑誌記者の持参したサンプルの中にヒツジはなく、氏が京都と松山で入手した「さし」もすべてがヒロズであったとの私信をいただいた。

 そうなると、こうした昆虫民俗資料を残したいぼくとしては、ぜひ自分でも「さし」からのヒロズの出現を確かめたいと思った。そして1995年、たまたま訪れた岐阜市内の小さい釣具店で"こだわり"の最後のつもりで求めた「さし」から羽化したのが、 ようやくめぐり会えた「ヒロズ」であった。

 結局、いろいろな商品名で呼ばれる「さしグループ」のキンバエ類の幼虫には、少なくともヒツジキンバエとヒロズキンバエの2種があり、それは混在することなく同じ商品名で売られていることがわかった。

 「さし」としてまれにイエバエが売られていることもあるらしいが、イエバエならば清潔な人工飼料による大量増産が容易なはずである。しかしキンバエ類となると、飼育には動物や魚の肉を必要とし、 相当な腐敗臭をともなう。これだけ大量のウジをこの価格で提供するためには、かなりの規模の飼育場が人里離れた場所に存在しているにちがいない。そしてそこではヒツジかヒロズのどちらかの系統が保持され、 釣具店がどこの生産者から「さし」を仕入れるかによって、おのずとどちらかの種類に特定されるものと思われる。

 「さし」がより飼いやすく扱いやすいイエバエではなくキンバエ類であることは、やはり釣り師による経験的な適否の選択によるものであろう。

 また、数多いキンバエ類の中でも商虫として「ヒロズ」と「ヒツジ」という特定の2種が選ばれたのには理由がある。キンバエ類が交尾するためには通常広い空間を必要とするが、この2種は狭所交尾性の特性を持ち、 コップの中でも交尾させることが可能である。これは累代増殖のためにはきわめて有利な性質となる。また、両種共に日本全国のどこにでもいて労せずに補充できることに加えて、そのウジが光沢といい、 柔軟性といい、最も釣り餌に適していることはすでに徳永(注1)によってヒツジキンバエで指摘されている。

 「さし」を赤く染色した「紅さし」や「ワカサギウォーム」は主としてワカサギ用として通常の「さし」の倍くらいの価格で売られている。かつて染色は紅ガラが使われたが、近年は食紅が用いられている。 釣りの本によると(注9)、染める理由は「冬、氷上の穴釣りなどで〈紅さし〉がいいのは、プランクトンの少なくなった時に(ワカサギが)好む赤虫に似せているからだ」そうである。

U-1 「さし」(右)と「紅さし」(左)
の売品(ともにキンバエ類の幼虫)
U-2 「バターウォーム」(右)と
「ワカサギウォーム」(左)の売品
U-3 「バターウォーム」の拡大
U-4 「ワカサギウォーム」の拡大 U-5 ヒツジキンバエの成虫 U-6 ヒロズキンバエの成虫

 なお、釣り餌のメーカーにとっては、分類学上の虫の種名によって商品名を特定する義理も必要もない。かくして同じ虫がさまざまな商品名をつけて売り出され、とくに最近は時代を反映して「バターウォーム」のような横文字・カタカナ名が増えている。 中にはヒツジキンバエに前述のチャバネトゲハネバエと同じ「ラビット」の名をつけた商品まである。いずれにしても釣り餌のハエの仲間は、種類と商品名の組み合わせが複雑である。

 図1は現在わかっている範囲でそれを整理したものであるが、少なくとも商品名に関しては今後もさらに増え続けていくことであろう。また、餌の生産と販売を兼ねているような小規模経営の釣具店では、 「さし」を自然発生の個体群で昔ながらの方法で自家生産している可能性が高い。そうした場合に起こる複数種の混入によってハエの種類そのものの追加もありえよう。


図1 釣り餌のハエ類の商品名と実際の種名との関係図


セイヨウミツバチ Apis mellifera (写真V-1・2)
[釣り餌名:蜂]

 最近、土浦の大手釣具店で入手したもので、おなじみのミツバチ(セイヨウミツバチ)の働き蜂の乾燥品12匹がプラスチックケースに並べてあり、価格は550円。「渓流用釣り餌」で「プロ仕様」とある。 

 日本で古くから在来の黒いニホンミツバチA.caranaを使って行われていた養蜂は、明治初期に欧米から導入された黄色いセイヨウミツバチに入れ替わり現在に至っているが、それはすべてが人の管理下で飼養され、 日本では野生化していない。そのため、この商品も養蜂家が飼育中のコロニーの一部であるにちがいない。

V-1 「蜂」(セイヨウミツバチの働きバチ)
の売品の容器
V-2 セイヨウミツバチの女王(中央)
と働きバチ

 念のため、玉川大学ミツバチ科学研究施設の吉田忠晴氏にサンプルを送って素性を問い合わせたところ、日本で飼われている系統の働き蜂に間違いないこととともに、大要次のような添え書きがあった。

 「サンプルは腹部の縞模様が不明瞭なので羽化1-2日目の若い働き蜂を巣板から摘み取ったか、羽化直前の巣板を恒温器に入れて、そこから羽化した働き蜂を集めたと考えられる。現在一般に使われている可動式の巣板は、 片側の巣房から2,500〜3,000匹の働き蜂が羽化するのでこの価格の高価なことに驚く」と。さすがに専門家、そうであったかの思いである。

 冒頭でふれたアメリカのイエコオロギに似た、このような乾燥虫体の釣り餌としての効果も、またどの部分が「プロ仕様」なのかもぼくにはわからない。素人考えではむしろミツバチの幼虫のほうがよいようにも思えるが、 これが釣り餌で売られているのはまだ見たことがない。



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