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科学農法のさきがけ、横井時敬の塩水選



 平成2年10月の「福岡国体」の前日、さわやかな秋晴れの昼下がりに、天皇・皇后両陛下は福岡県農業総合試験場(筑紫野市)をご訪問になった。

 同農試の正面玄関左手には「塩水選」の記念碑が建っている。この碑の前で両陛下は、職員が行なう塩水選の作業をご覧になった。春になると日本中の稲作農家がやっている塩水選。 あの変哲もない作業を、「なぜ、わざわざ」と思うかも知れない。

 実は、この塩水選(正確には塩水選種法)こそ、明治15年に同農試の前身福岡農学校教諭、横井時敬(よこい・ときよし)が考案した我が国農業技術の第1号だからである。 皇居に水田をもち、御自身で田植えをなさる陛下にとって、この塩水選との出会いは特別の親しみを感じられた一刻だったろう。

 横井といえば、福岡県勧業試験場長を経て東京帝国大学教授などの要職を歴任した我が国農学界の大先覚者である。東京農業大学の創立者でもあり、 有名な「農学興って農業亡ぶ」は彼の名句である。その大先生と塩水選、なんともおもしろい組合せではないか。

 塩水に浸した種籾の浮沈で充実した種子を選別する。横井は塩水の最適濃度を求め、この方法が時・所・作業者によるフレが少なく、従来の風選や水選にまさること、 多収に結びつくことを農家の圃場で実証してみせた。

 塩水選はまた技術としての寿命の長さ、普及規模の大きさでも特筆される。明治のはじめ文明開化の世がきて、農業もまた欧米科学の吸収に熱中した。 クラーク博士で有名な札幌農学校や駒場農学校ができたのもこの時期である。にも拘らず、実際の農業に定着できる技術はなかなか生まれなかった。 欧米の大規模畑作技術を我が国の零細な水田作中心の農業に直接適用しようとしたところに無理があったのだろう。科学など農業に役立たないと、 世間が思いはじめた時にやっと出た起死回生のヒットが塩水選だったのである。

 駒場農学校時代、横井は優等生だったらしい。だが、同級生の多くが中央の要職に着く中で彼だけが福岡に赴任した。でも、それが幸いした。 当時の福岡は農業の先進地で精農に接し、彼らの農業に学ぶには絶好の土地であった。塩水選のヒントは英国の小麦の研究にあったらしいが、 これを生かし得たのはつねに現場の農業とともにあった彼の研究態度にあったように思う。科学と伝統農法の融合である。

 塩水選は大正から昭和にかけて、全国に普及していった。東北地方では冷害が普及のバネになったという。不作に挫けず、 今年こそはの気概をもって良い種子を選んだ当時の農民の心意気が伝わってくるようだ。

 今年もそろそろ塩水選の季節がくる。未曾有の凶作の種籾は軽く塩水選もつらいだろう。だからこそ先人の心意気を受け継いでほしい。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1994年4月6日より転載


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