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高嶺(値)の花を庶民の手に
需要先取りしたシステム構築

〜民間の努力がブーム呼ぶ〜


地域農業に洋ランの花を咲かせた人々



 「なんか変だぞ」と、東京世田ケ谷で園芸種苗店を営む合田弘之は思ったという。昭和30年代も後半のこと。フランスのバーシェル・ルクール社から輸入していたランの揃いが急によくなり、 新種のランが大量に供給されるようになったからである。

 実は、昭和35年に組織培養による大量増殖法がフランスのG.M.モレルによって開発された。バ社のランの変化はこの技術を導入した成果である。

 モレルは国立農業研究所の病理研究者で、最初はウイルス病にかかった作物の無毒化研究を手がけていた。ウイルスに侵された作物でも茎の生長点組織は侵されない。 そこで、この組織をフラスコ内で無菌培養し、苗にまで育てる技術を確立した。今日、いちごなどでお馴染のウイルスフリー苗である。

 間もなく、この方法はシンビジウムなど高価な園芸作物の増殖法としても着目される。培養中に無数の個体に分裂し、後にメリクロンと名づけられた苗の増殖が可能になったからだ。 文頭の挿話はその直後の出来事である。

 当時、シンビジウムは4〜5万円で取り引きされていた。サラリーマンの月給が1万円そこそこの時代である。繁殖がむずかしくて少数のお金持ちの趣味でしかなかったランは、 この技術革新以降、大衆化していった。

 シンビジウム  絵:後藤泱子  モレルの研究はわが国にも伝わり、多くの人の関心を集めた。ただ、最初にメリクロン苗の生産を企業化したのは、当時東京農業大学にいた三浦二郎らしい。 合田の店の常連だった三浦はもともと醸造学が専門だったが、趣味が高じてメリクロン苗生産に挑戦する。はじめ、学内の小温室で細々と研究をしていたが、 やがて退職、神奈川県で本格的なラン生産に取り組むようになった。

 メリクロン苗づくりのポイントは培地の調製にある。多くの失敗を重ねた末、昭和40年にはシンビジウム、43年にはカトレアの苗の各数十品種の育成に成功した。 合田の店から売り出したところ、大変好評だった。

 ところで、現在わが国のラン栽培農家数は各種のランを合わせて延3700戸に及び、生産総額は400億円をこえる。このようにランを地域農業の中に根づかせたパイオニアとしては、 自らも農家である広島県の高木作一や三重県の赤塚充良などの名が上げられよう。品種改良・大量生産などの技術開発から生産者を糾合した産地づくり・新しい販路の開拓まで。 いずれも将来の需要を先取りした一貫した経営システムを築き上げてきた。

 既成の農業と違ってランなど新作物の導入の場合、技術を創るとは販路を拓くことでもあった。「市場に出荷したところ、 100人ほどの買い手のうち5人ほどしか手を出さなかった」と、赤塚は当時を語る。

 今日のブームにつながるこうした努力が、もっぱら民間の力によって成し遂げられてきたことを、とくに強調しておきたい。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1994年11月22日より転載


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