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戦後の食料危機を救った水稲「藤坂五号」

〜奇跡の品種を育成〜


稲の神様と呼ばれた田中稔



 昭和46年の10月、青森県農業試験場内に「田中稔記念館」が落成した。その前年に試験場を去った田中場長を称えて、彼を敬愛する農家の浄財を基に建設されたものである。 56年には「田中稔稲作顕彰会」も設立され、稲作発展に寄与した県内農家・技術者の表彰が今もつづいている。

 田中がいかに農家に慕われていたかが、よくわかる。その彼が、はじめて青森の土を踏んだのは昭和10年だった。ちょうど東北地方に冷害が頻発した時代である。 この年、農林省は「凶作防止試験地」を各地に設置。その一つが彼が赴任した藤坂(現藤坂支場)だった。

 新設間もない試験地には施設らしいものは何もなかったという。ただ真夏でも12度の冷めたい水が湧き出ていた。この水が以後18年間、 田中の冷害研究を助ける。彼が育成した「藤坂5号」はこの水から耐冷性を付与され、救世の大品種に生長したからである。

 戦後の日本が食料危機を脱出できたのは、保温折衷苗代と藤坂5号のおかげだといってよい。保温折衷苗代による早植と耐冷性品種の藤坂5号が相和し、 はじめて北日本の稲作が安定、増産が可能になったからである。田中はその功で総理大臣表彰に輝いている。

冷害で、開花したままで閉じない籾(右)、傾かない穂(左)  絵:後藤泱子  ところで、藤坂5号は昭和14年に農林省盛岡試験地で交配された。交配親は双葉×善石早生(ぜんごくわせ)。その後代系統が藤坂に届いたのは、 昭和18年のことだった。

 ここから育種家としての田中の本領が発揮される。藤坂5号は丈が低く、葉が黒ずんで分げつも少ない。当時の主力品種「陸羽132号」に比べると、 ひどく格好が悪い。ただ出穂すると長大な穂をつけ、稔実もよい。多肥にするとさらに登熟がよくなり、他品種をはるかにしのぐ多収を示した。 「稲をみて稲をつくる」という彼の姿勢が、この奇跡の品種を生み出したのだろう。

 昭和24年、藤坂5号は普及に移された。大変な人気で、種籾を求める農家が藤坂に殺到したという。32年には全国で6.6万ヘクタールにまで達した。 この品種の血をひくフジミノリ・ササニシキなどの活躍については、もう説明を要しないだろう。

 昭和28年、田中は青森農試場長に就任。県稲作の収量向上に全力を尽くす。彼が陣頭指揮した「深層追肥」は40年代前半には全県の3分の1に普及、 県単収の向上に大きく貢献した。彼の稲作への情熱は尽きることがなかった。49年からの5年間は、毎年のように中国に赴き、同国東北部の稲作改善に力を尽くしている。 まさに「稲の神様」にふさわしい活躍だった。

 平成5年6月、田中は90才で不帰の人となった。最期の言葉は「暗くなるから閉めないでくれ」だったという。病床の彼の眠りを妨げぬようカーテンを閉めた奥さんにいったのだが、 なぜか農業に向けた警告にも聞こえる。農業の明るさは保たれているだろうか。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1997年7月9日 より転載


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