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増産時代をリードした松島省三の「V字理論稲作」


〜自らも水田で実践し 異論には真っ向勝負〜



 去る3月13日、稲作研究一筋に生きた一人の農学者が昇天した。松島省三(せいぞう)、85才。厳格な無教会キリスト教徒だった彼の告別式には、 農業関係はもちろん、信仰を同じくする多くの人々が参列したという。

 昭和30年代といえば、農家も技術者も増産に燃えていた時代である。中でも烈しく燃えたのが、当時農林省の農業技術研究所(埼玉県鴻巣市)にあった松島の研究室だった。

 多収を追求する松島の稲作研究は、収量を構成要素別に追求することからはじまった。稲の収量は〈面積当りの籾数×登熟歩合〉で決まる。 多収を得るには、生育中の稲に面積当り十分な数の籾を確保し、つぎに確保された籾の登熟歩合を高めてやればよい。

 まず籾数の確保だが。短稈穂数型品種を密植し、窒素を十分施せば比較的容易である。問題は登熟歩合を高める方法だ。籾数を増やそうと窒素をやれば、 登熟が悪くなってしまう。どうすればこの逆相関を断ち切ることができるか。そこで窒素の施用時期を様々に変え、登熟との関係を調べてみた。

毎日、試験田で稲を手にするのが松島の日課だった  絵:後藤泱子  実験を重ねて、松島の得た結論はこうだった。出穂前33日ころ、稲の体内窒素を切ってやればよい。そうすれば逆相関を断ち、籾数を確保しながら登熟歩合を上げ、 増収することができる。この時期、窒素が多いことが登熟を悪くする原因だったのである。

 松島はこの発見を核にして、多収技術「V字理論稲作」を発表した。登熟歩合が窒素の施用時期とともにV字型に変化することからきた通称だが、 彼自身は自信をこめて「理想稲稲作」と称していた。

 松島は信念の人だった。彼の説に異論を唱える研究者には真向から論争を挑み、一歩も退かない。反面、農家の水田で自らの理論を実践してみせる実践派でもあった。

 長野県の伊那農協には13年間にわたり、毎年指導に訪れている。おかげで同農協の南箕輪村・伊那市では、単収が全国1・2位に跳ね上がったという。

 「いつでも、誰でも、どこでもできる」が、松島の口癖だった。わかり易く、情熱をこめた彼の話は、いつも農家を魅了した。 昭和41年に出版した『稲作診断と増収技術』(農文協)は12万部を売りつくしたという。

 昭和48年、松島は農業技術研究所を退職した。ちょうど米が余りはじめ、多収への関心が薄れはじめた時期だったが、彼の信念に一瞬の揺るぎもなかった。 日本がだめなら、世界がある。技術コンサルタント会社に迎えられ、中国・アフリカなど世界各地の稲作指導に当たることになった。

 世界中に「理想稲稲作」を広め、飢餓克服に役立てたい。旧約聖書にある「乳と蜜の流れる地」の実現が、晩年の松島の願いだった。 「この願いは私の死後でなければ叶えられないでしょう」と、松島は後輩に書き送っている。ほんの1年と少し前のことである。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1997年6月11日 より転載


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