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戦後畜産が飛び立った時
西川義正と凍結精液


〜外国技術を日本の実情に応用〜



 太平洋戦争後、間もない昭和27年6月、一人の研究者が羽田空港を飛び立っていった。西川義正、39才。農業技術研究所畜産部(現畜産試験場)の若手研究室長だった。

 当時、敗戦国の日本は国際社会の除け者であった。研究交流も制限され、海外の学会出席も認められなかった。解禁されたのは、昭和27年。 ただし出席は二学会に限られ、選定は学術会議に委ねられた。ここで選ばれた学会の一つが、コペンハーゲンの国際家畜繁殖学会議である。 西川の出発はそのためで、日本中の期待が彼に寄せられていた。

 だがその期待以上に、学会から彼がもち帰ったみやげは大きかった。世界ではじめて牛精子の凍結保存に成功した、イギリス国立医学研究所のポルジの報告に出会ったからである。 精液の希釈液にグリセリンを混合し、ドライアイスでマイナス79度に凍結する。世界の畜産を一変させた世紀の大発見だった。

かつて和牛種雄牛は、中国山地に散在していた  絵:後藤泱子  我が国の人工授精技術は大正のはじめロシヤから移入された。最初は軍馬が対象だったが、やがて牛などの家畜に応用される。 もっとも、実用化されたのは戦後になってから。昭和25年には家畜改良増殖法が制定され、人工授精は急速に普及されようとしていた。

 西川がポルジの凍結保存法にめぐり合ったのは、ちょうどこの時期である。生精液とちがい、凍結精液を用いれば時間・空間をこえ、優良精子を効率的に利用できる。

 帰国後、西川は研究室の仲間を誘い、我が国の実情にあった凍結精液の技術開発に没頭した。まず、機械・器具づくりから。当時、 和牛の種雄牛の多くは中国山地の村々で個別に飼育されていた。試作機器を使い、精液を凍結処理する技術の開発が、千葉畜試などの協力で進められていった。

 西川はやがて京都大学に移る。研究は継続され、昭和33年には兵庫県但馬地方で、和牛種雄牛を用いた現地試験が行なわれた。日本における凍結精液時代の幕開けである。

 研究だけではない。昭和35年には凍結精液研究会をつくり、以後、新技術の指導・普及に当たった。同年、液体窒素によるマイナス196度の急速凍結法が開発されたが、 その普及にも拍車をかける結果になった。

 我が国の牛の飼養頭数は、現在、乳・肉牛を合せて500万頭。年間220万頭からの子牛が生まれる。そのほとんどが人工授精で、しかも凍結精液を用いている。 戦後の畜産が、長い歴史をもつ役牛から短期間に乳・肉牛に変わり、高生産牛・多頭飼育方式に転進できたのも、凍結精液のおかげだろう。

 平成6年の早春、散歩中の西川は交通事故にまきこまれ、急逝した。享年80才。逝去を悼む新聞記事には「西川さんは家畜の人工授精の世界的権威で、 現在行なわれている牛、馬などの人工授精の大半は、西川さんの研究成果を基礎にしている。」と、あった。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1996年10月9日 より転載


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