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日本中の子供が頬ばるイチゴ

〜 「女峰」を育成した赤木博 〜


 子どもはどうしてあんなにイチゴが好きなんだろう。我が家の孫もイチゴとなると、さっきまで<お腹いっぱい>といっていたのがすっ飛んできて頬(ほお)ばりだす。 今年のひな祭にもイチゴにありついた子どもは多いだろう。

イラスト

ごく最近まで「女峰」は西の「とよのか」とともに
日本を二分していた
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
 ところで、イチゴがクリスマスやひな祭りなど、子どものお祝いに欠かせなくなったのは、意外と最近のことのようである。「女峰(にょほう)」「とよのか」という好適品種が育成され、 促成栽培が可能になってからだが、今回はその女峰について述べてみたい。

 まずイチゴの作型について概説する。一昔前のイチゴは、ほとんどが5〜6月どりの露地ものだった。昭和40年代になると、ビニール被覆が普及し、水田裏作の半促成栽培がはじまる。 この作型に休眠打破処理を加えて2月中旬からの収穫も可能になっていった。

 昭和40年代後半になると米の生産調整が本格化し、転換畑でのイチゴ栽培が注目される。食生活が豊かになり、おいしいイチゴをたくさん食べたいという消費者の声が追い風になったのだろう。 さらに作期を早めるため、11月から収穫できる促成栽培用品種の育成が求められるようになった。

 後に女峰につながる品種の育成はこうした状況の下、昭和45年に栃木農試佐野分場でスタートした。同分場はまもなく閉鎖されたが、業務は栃木分場に移管され、続けられた。 育成者は赤木博(あかぎ ひろし)ら7名である。女峰は露地用品種「ダナー」と半促成栽培用品種「はるのか」「麗紅(れいこう)」の血を受けつぐ。 ランナーで殖える栄養繁殖作物だから品種改良は1株を探し当てることで足りる。赤木にいわせると「交通事故みたいなもの」だが、それだけに選抜は宝探しのようで気が抜けない。

 定植期をずらして植えた1万株を対象に、観察が毎日のように続けられた。熟期が早くて食味がよく、玉揃(そろ)い・大きさ・色合いにすぐれた株を選び、 株脇に目印の割りバシを立てていく。女峰は昭和59年に世に出たのだから、14年間の延べ14万株に及ぶ選抜の中から選び出されたことになる。 この系統が1番たくさんハシが立ったのだろう。命名は栃木の名山女峰山に因(ちな)んだという。

 促成栽培用の品種改良に力を注いだのは、栃木農試だけではない。なみいる競争相手を退け、女峰が君臨できたのはクリスマス前に出荷できたからである。 しかも5月までの長期間出荷ができる。花芽分化が早く休眠がごく浅いためで、クリスマスどころか七五三にさえ間に合わせることができた。

 発表後、女峰は爆発的な売れ行きを示す。鮮紅色で流通に耐える果皮の強さ、酸味と甘さがミックスした絶妙の良食味が受けて、市場では高値で取引きされた。 最高は昭和63年ころの作付面積2万2千ヘクタール。最近は孫品種に当たる「とちおとめ」の急追を受け陰りがみられるが、それでも東京中央市場では第2位、25.6%のシェアを占めている。

 赤木は現在栃木分場長。目下の夢は定年後ネパールに住み、野菜栽培の指導をすることにあるという。すでに現地に拠点のホテルを自腹で建て、休暇をとって通っているというから本物だ。 女峰同様、この人もなかなかの快男児である。
「農業共済新聞」 2001/03/14より転載  (西尾 敏彦)


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