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道端の稲から世紀の大発見

〜 阿部亀治が育てた水稲『亀ノ尾(かめのお)』 〜


 昨年の9月、山形県余目(あまるめ)町で「全国亀ノ尾サミット」が開催された。余目は水稲品種「亀ノ尾」誕生の地。同地の精農阿部亀治(あべかめじ)が育成した亀ノ尾は、 現在栽培されているすべての水稲品種のルーツの1つといってよい。もちろん最近はあまり栽培されていないが、酒米としての人気は今も高い。〈幻の酒米〉亀ノ尾を育て、 日本一の美酒を作ろうと苦闘する女性を描いたマンガ「夏子の酒」を読んだ人も多いだろう。数年前にはTVでも放映された。サミットには500人が集い、亀ノ尾に因(ちな)んだミュージカルに興じ、 亀ノ尾仕込みの吟醸酒を酌み交わしたという。

 亀ノ尾の歴史は明治26年にはじまる。この年の秋、亀治は近在の立谷沢(たちやざわ)村熊谷(くまがい)神社に参詣するが、その際近くの水田の冷立稲(ひえだちいね)の中から見つけた3本の穂が、 この品種の源流になった。冷立稲とは、冷水がかりの水口に植える低温に強い稲のこと。この辺りはもともと冷害常習地で、この年は冷立稲まで青立ちしたが、この3本だけは稔(みの)っていた。 亀治はこれを持ち帰り、翌年から自分の田で選抜をつづけた。この品種に合う水管理や施肥法も工夫してみたという。亀ノ尾が世に出たのは明治30年。この年も冷害だったが、 彼が選び抜いたこの品種だけはみごとな穂をつけた。以来、噂(うわさ)は広がり各地に普及していった。

イラスト

馬耕用の持立犂と亀治が「亀の尾」を選抜した
水田の現況(余目町小出新田)
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
 余目町の位置する庄内地方はもともと米づくりに熱心なお国柄。明治中期には「乾田馬耕」が伝わり、水田の乾田化や畜力耕が急速に普及した。ちょうど魚肥や大豆粕(かす)などの購入肥料が使われはじめた時期でもある。 亀治はこうした最新技術を率先して取り入れた一人だが、その深耕多肥に見合う新しい品種が必要だった。亀ノ尾はこの新時代の要望に応えるために生まれた品種だったのである。

 亀ノ尾という名の由来については、つぎの逸話が残っている。命名を依頼された友人は、亀治がつくった稲の王で「亀ノ王」と名づけたのだが、彼はこれを固辞する。 「王ではなく、せいぜいシッポだ」と、「尾」に代えたという。このあたりが彼の人柄なのだろう。

 だが、亀ノ尾はやはり稲の王だったようだ。明治末から大正にかけて、広く東北・北陸地方で栽培され、大正14年には朝鮮半島も含め、最高20万ヘクタールまで普及している。 冷害に強いだけでなく、当時としては早熟多収で、良食味でもあったからだろう。「コシヒカリ」「ひとめぼれ」「あきたこまち」など、私たちが毎日口にするお米は、いずれもこの品種の血を受け継いでいる。

 5月のはじめ、余目町を訪ねてみた。町の資料館には、この町が育てた7人の農民育種家の肖像と事績が展示されている。いずれも明治・大正期に活躍した精農たちで、もちろん亀治も含まれていた。 彼が亀ノ尾を試作した田んぼに近い八幡神社には、頌徳碑(しょうとくひ)が建つ。亀ノ尾の生地、熊谷神社の境内からわき出る水は今も冷たかった。この冷水が亀治に不世出の品種を授けたのだろう。 ここの境内にも発祥の地の記念碑だけが建っていた。

 亀治は俳号を「花酔」と称し、俳句をよくした。その一句に「思うまま/道はかどらぬ/稲見かな」とある。それほど熱心に、田んぼの稲を見回っていたのだろう。昭和3年に61歳で亡くなった。
「農業共済新聞」 2002/06/12より転載  (西尾 敏彦)


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