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100年をこえて稼働する製茶機の発明者、
高林謙三(たかばやしけんぞう)


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 最近、富士山南麓の茶園地帯を旅してみた。ちょうど八十八夜で、白雪の富士に茶樹の新緑が波うち、目にしみるような美しさだった。

 わが国の茶園面積は現在5万ヘクタール、古い歴史をもつ茶栽培だが、今日のように増えたのは明治になってからである。この時代、茶の輸出が激増し、当初1万トン弱だった生産は明治の末に3万トンを超えている。 わが国初の農産加工機械で、今も活躍する製茶機「粗揉機(そじゅうき)」の発明は、こうした環境が生み出したものであった。発明者は高林謙三(たかばやしけんぞう)といった。

 高林はもともと医者で、埼玉県小仙波村(現在の川越市)で開業していた。地元で評判の名医だったそうだが、やがて茶園の経営にものり出した。輸出向けの茶生産にたづさわることで、 国益にも寄与したいと考えたのだろう。

 高林の関心はしかし、まもなく製茶機の発明に移っていく。茶園を経営してみて、手揉み製茶の能率の悪さを実感したからである。輸出向けというのに手揉みでは、1日に1人3〜5キロの製茶が精いっぱい。 これでは輸出拡大もあまり期待できない。

〈ぜひとも機械化が必要〉と考えた彼は、みずから発明の道を歩みはじめた。明治11年(1878)、48歳のときであった。

 明治18年(1885)、高林はまず茶葉蒸器(むしき)など3種の製茶機を発明、特許を取得する。ちょうどこの年、わが国に特許制度が発足するのだが、 彼の特許はその2〜4号だった。1号は軍関係というから、実質的には最初の民間特許ということになるのだろう。

 もっとも、このときの彼の発明は、まだ実用には無理があったようだ。品質を落とすという苦情が殺到し、借財を抱え込むことになった。さらに肺患の再発や自宅の類焼が追い打ちをかけた。 だがそんな失敗や災難も、彼をさらに発明へ駆り立てるだけだった。さらに医業も捨て、発明に専念する。

 明治31年(1898)、高林は揉みながら葉を乾燥できる粗揉機を発明、新たな特許を取得する。粗揉機の登場で、従来の手揉みの前半を機械に頼る半機械製茶の時代が到来する。 だが高林の苦労が絶えることはなかった。量産が可能になったため、粗悪品が出まわり、各地で機械製茶排撃の声がまき起こったのである。彼はこの危機を機械の改良で乗り越えていった。 さいわい輸出が急進し、増産が強く求められる時期である。粗揉機は製茶作業でもっとも重労働であった下揉みの省力化に貢献、製茶能率を倍増させる技術として、農家に受け入れられていった。

 ここで、現在の製茶工程について述べておこう。 茶園で摘採された生葉は蒸器(むしき)→粗揉機→揉捻機(じゅうねんき)中揉機(ちゅうじゅうき)精揉機(せいじゅうき)→乾燥機を経て、 製品となる。高林の粗揉機の発明は、下揉み省力化に貢献しただけでなく、他の工程の機械化を促すきっかけにもなった。蒸機から精揉機に至る各機械は、彼につづく発明家たちによって、 その後開発されたものである。

 明治34年(1901)、粗揉機が完成してわずか3年後に、高林は不帰の人となった。やがて来る機械製茶の時代をみることのない、窮迫の中の死であったという。しかし彼がつくった粗揉機は、改造され大型化はしたが、 1世紀過ぎた今も、各地で稼動しつづけている。最近は200キロ以上の大型機も出現している。地下の高林はどんな想いでみているだろう。

続日本の「農」を拓いた先人たち(46)製茶機で作業を省力化、世紀を越え活躍する高林謙三の発明 『農業共済新聞』2003年5月2週号(2003).より転載  (西尾 敏彦)


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