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大恥が開発の発端、太田道雄(おおたみちお)
ケイ酸質肥料


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 昭和25年(1950年)といえば、わが国経済が農業から工業へ、大きく舵を切りはじめた時期である。肥料工業が復興し、新しい化学肥料がつぎつぎ出回るようになったのも、このころからであった。 じつはこの年、ひとりの肥料学者が山梨大学に赴任した。のちに世界ではじめて、ケイ(珪)酸の肥料効果を明らかにした太田道雄(おおたみちお)教授である。  
 
 太田が赴任した当時、大学はまだ戦災のため、実験施設も十分整備されていなかった。大学がだめなら、農家の田んぼで学ぼう。彼はさっそく地元の協力を得て、県内9ヵ所に試験田をつくった。 とくに熱心に通ったのは、大学に近い富士見村(現在の笛吹市)笛吹川沿いの老朽化水田である。食料増産が強く求められていた時代で、水田には「山梨大学肥料試験地」の大看板を立て、 施肥改善による多収穫試験を開始した。  
 
 ここで「老朽化水田」について述べておこう。老朽化水田は砂地で作土の浅い漏水田に多い。このような水田では鉄やマンガンが溶脱してしまうため、真夏に水田が還元状態になると硫化水素が発生し、 稲が根腐れを起こす。これが老朽化水田だが、収穫直前に収量が激減するので、秋落ち田ともいわれた。  
 
 この老朽化水田が甲府盆地には多い。とくに富士見村はその中心地帯で、太田はここに鉄分の多い肥料を施せば、確実に多収が得られると考え、試験に取り組んだのであった。  
 
 だが太田のもくろみはみごとな失敗に帰する。はじめのうちこそ稲は旺盛に生育したが、後半になると生育はがた落ち、最後は見るも無惨に枯れてしまった。こうなれば、大学の看板など、 恥ずかしくて立てておけない。やむなく夜中に撤去したという。  
 
 太田の研究はしかし、この大恥がきっかけで意外な急進展をみる。あわれな稲を持ち帰って分析した結果、ケイ酸含量が極端に低いことに気がついたのである。どうやら土壌中のケイ酸不足が原因らしい。 そこで翌年、ケイ酸を主成分とする鉱滓(スラグ)を施したところ、3〜4割の大増収になった。昭和28年(1953)、太田はこの結果を学会で発表した。  
 
 ケイ酸肥料については、しかし、農林省が主宰した各県農業試験場の研究にも触れておかねばなるまい。とくに富山県農業試験場の小幡宗平(おばたそうへい)技師は、 老朽化水田の多い富山平野で、ケイ酸石灰(鉱滓)の増収効果を明らかにした。太田より1年早い昭和25年(1950)に試験を開始し、29年(1954)には県下53ヵ所で実証試験を行い、普及への足がかりをつけている。  
 
 太田や小幡の研究を契機に、我が国のケイ酸研究はつぎつぎと積み重ねられ、肥効のメカニズムが明らかにされていった。ケイ酸は水稲の葉や茎の表面に沈積し、病原菌や害虫の侵入を防ぐ。 また葉を直立させ、受光態勢をよくするため、光合成をさかんにし、増収に貢献する。作物によって効果に差があるようだが、水稲でとくに効果が大きいことが明らかになっていった。  
 
 昭和30年(1955)、農林省はケイ酸肥料を世界ではじめて公定肥料に認定した。ここからケイ酸は米増産の強い味方として、急速に生産量を増やしていった。我が国のケイ酸質肥料生産量が最高に達したのは、 米生産の最盛期だった昭和43年(1968)の138万トン、最近はそれが27万トンにまで激減している。土づくりへの関心が高まりの中で、ふたたび注目を集めてきつつあるようだが……  
 
続日本の「農」を拓いた先人たち(68) 大恥が成功の発端に、ケイ酸質肥料を開発した太田道雄 『農業共済新聞』2005年3月2週号(2005).より転載  (西尾 敏彦)


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