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太平洋戦争の戦塵のなかに消えた悲運の良質小麦、
野村盛久の「埼玉27号」


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【絵:後藤 泱子】

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 麦秋の季節である。こがね色の麦畑が美しい。今回は太平洋戦争直前の一時期、関東から四国地方までの麦畑をこがね色に染めた良質小麦「埼玉27号」の物語である。農家の期待を集めて急速に普及しながら、 戦争によって忽然と消えていった、この悲運の品種について語ってみたい。

 「埼玉27号」は昭和6年(1931)、当時埼玉県大里郡玉井村(現在の熊谷市)にあった県農事試験場玉井種芸部(現在の農林総合研究センター水田農業研究所)で生まれた。育成者は種芸部主幹の野村盛久(のむらもりひさ)。 ちょうど製粉工業が発達し、麺やパン食が急檄に伸びた時期である。各地の試験場でパンに向く良質品種の育種がさかんに行われたが、その先陣を切ったのが「埼玉27号」であった。両親は「カリフォルニア×早熟赤毛」の雑種1代と在来種の「早小麦」。 良質で製粉歩合にすぐれたアメリカ種の形質を短稈で倒伏に強い日本種に導入した、当時としては最高級の高品質品種であった。

 じつはこの品種の交配は大正7年(1918)、野村の前任地農商務省農事試験場九州支場(熊本)で行われた。埼玉県農試への赴任のはなむけに、育成途上の雑種3代50系統を分譲されたものだが、 そのひとつが後に「埼玉27号」につながった。

 「埼玉27号」が世に出た昭和のはじめといえば、化学肥料の硫安が出回りはじめた時期である。強稈で倒伏に強く、耐肥性にすぐれたこの品種は化学肥料を施すことで、在来種の倍近く増収したという。 そのため各地の増産競励会でも評判がよく、一躍全国に広がっていった。大粒良質で製粉歩合が高いため、製粉業界に歓迎されたことも普及を加速させた。昭和17年(1942)には栽培面積全国第1位、 9万5000ヘクタール(11%)を誇っている。とくに主産地の群馬・埼玉両県では5万ヘクタールが栽培され、一時は台湾でも普及していた。

 そのまま順調に伸びると思えた「埼玉27号」だが、突如暗雲が立ちはだかる。戦争の激化で、製粉工場が止まり、化学肥料が不足すると、一転して衰退の一途をたどる。少肥では減収が大きく、 高品質も生きなかったからである。戦後、化学肥料が復活して、しばらく持ちこたえたが、じょじょに主役の座からはずれ、ふたたび復帰することはなかった。

 野村は鹿児島県生まれ。埼玉県では大正9年(1920)から昭和10年(1935)まで15年間、稲・麦の研究に従事している。祖父が初代埼玉県令(知事)だったそうだが、無口で身なりには無頓着、 いつも率先して圃場に出て、汗まみれで働いたという。彼が埼玉県で育成した小麦品種はほかにも多い。なかでも「埼玉小麦29号」は、現在も根強い人気をもつ「農林26号」などの交配親として品種改良に貢献している。

 熊谷市の水田農業研究所の正門すぐ右手に、小麦品種「埼玉27号」と、育成者野村盛久技師をたたえる顕彰碑が建っている。高さ1メートル、幅2メートル。県下350市町村の農家の「小麦1升拠出」によるものだが、 彼らの感謝の気持ちがこの大きな碑をつくったのだろう。昭和16年(1941)11月に完成するが、そのわずか3ヶ月前に、野村は54歳の若さで亡くなった。

新・日本の農を拓いた先人たち(18)戦塵のなかに消えた悲運の品種、野村盛久の「埼玉27号」、強稈・多収で高品質の小麦 『農業共済新聞』2009年6月2週号(2009)より転載  (西尾 敏彦)


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