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近代花き育種の始祖、
宮澤文吾のシャクヤクとハナショウブ


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 JR大船駅に近い神奈川県立フラワーセンターは四季折々の花を愛でる人で、いつもにぎわっている。とくに5〜6月には6万人を超す人出があるとか。この時期に咲くシャクヤク・ハナショウブが人びとを呼ぶのである。

 だが、この美しい花ばなの陰に、ひとりの研究者の献身的な働きがあったことを果たしてどれだけの人が知っているだろうか。今から100年の昔、この場所にあった神奈川県農事試験場で、 品種改良に汗を流した宮澤文吾(みやざわぶんご)がその人である。

 話は明治の末にさかのぼる。当時、欧米では日本の草花が大人気で、これを改良して、日本に逆輸入しようという動きさえあった。そこで政府はわが国固有のシャクヤク・ハナショウブなどの輸出を計画、 当時保土ヶ谷町(現在の横浜市保土ヶ谷区)にあった神奈川県農事試験場に補助金を交付、優良品種育成を委託した。主任技師に任ぜられたのは大学卒業2年目の若き研究者宮澤文吾であった。 大正元年(1912)のことである。

 宮澤はただちに内外のシャクヤク・ハナショウブの品種を集め、人工交配に着手した。まだメンデル遺伝法則の再発見から日も浅く、人工交配育種が緒についたばかりの時代のことであった。

 シャクヤクにはヨーロッパ産の「洋シャク」と中国・日本産の品種群「和シャク」がある。宮澤はこれを交配、花の豪華な改良品種を育成した。いっぽうハナショウブには江戸時代から「江戸系」「伊勢系」「肥後系」の3系統がある。 宮澤はおもに江戸系を材料に、さらに改良、優美な新品種を育成していった。

 神奈川農試はやがて大船に移る。宮澤は試験場長に昇進するが、大正13年(1924)ヨーロッパ留学のため退職した。神奈川農試在任中、彼が育成したシャクヤクは700品種、ハナショウブは300品種。 今日「大船系」と呼ばれる品種群がそれで、海外にも輸出され好評を博した。彼こそ、わが国近代花き育種の始祖といってよいだろう。

 とはいえ今日のフラワーセンターの隆盛は、長い歳月、これら品種の維持保存に尽力した試験場・フラワーセンター職員の努力によるものである。戦争中は食糧増産に無関係な花き研究はきびしく制限されたが、 代々の場員が「日本の宝」と、守り通した。だがさすがに現在は、フラワーセンターに展示されるシャクヤク200品種のうち「大船系」は170品種、ハナショウブは160品種中60品種に減ってしまっている。 もちろんその間に、「大船系」が全国に広まり、より多くの人の目を楽しませるようになったことはいうまでもない。

 宮澤はその後、宮崎高等農林学校(現在の宮崎大学農学部)教授などを歴任、戦後も大分県温泉熱利用研究所(現在の花き研究所)長として研究の指導に当たった。もともと幅の広い遺伝学者で、 生涯に水稲・麦類・朝顔・ツツジはもちろん、テントウムシまで、多くの論文を残している。晩年は郷里の長野県に帰り、野生ギクや野生ツツジの遺伝研究に没頭していたという。昭和43年(1968)、 85歳で亡くなった。墓地は木曽駒岳がはるかにみえる長野県松川町の生家の近くにある。

新・日本の農を拓いた先人たち(19)近代花き育種の始祖、宮澤文吾のシャクヤクとハナショウブ、代々守り通された「日本の宝」 『農業共済新聞』2009年7月2週号(2009)より転載  (西尾 敏彦)


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