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多くの育種材料を育成、水稲耐病性育種の
陰の功労者、北村英一


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 〈日本稲にインド型稲の血を入れ、いもち病に強い品種をつくる〉
 敗戦直後の昭和22年(1947)、姫路市にあった農林省中国農業試験場(現在は近畿中国四国農業研究センター、福山市)に研究室長として赴任した北村英一(きたむらえいいち)がもらった課題は、この難題だった。

 稲には日本型・インド型がある。それぞれ特長をもつが、インド型稲は稲の大敵いもち病に強かった。そこでインド型稲に日本稲を戻し交配し、いもちに強い品種をつくるのだが、日印品種間の交配はむずかしく、 ほとんどが不稔粒になってしまう。北村はその一因が細胞質遺伝にあることを突きとめ、日本稲を受粉親にすることで、戻し交配を進めていった。

 ここで戻し交配について説明しておこう。戻し交配とは、1代雑種に一方の親を繰り返し交配する育種法である。北村はこの方法で、最初1度だけ使う1回親にインド型品種を、繰り返し交配する反復親に日本稲を使い、 日本稲の特性を損ねない、いもち抵抗性系統を育成していった。昭和36年(1961)までの14年間の中国農試在職中に、彼が育成した耐病性系統は570、インド型稲11品種に日本稲6品種を戻し交配して育成した。

 北村の系統は農家が直接使う品種ではない。育種素材として試験場のいもち病抵抗性品種育成に利用される。なかでもフィリピン稲「タデュカン」を1回親に、 「千本旭」「農林8号」を反復親にしてつくった「ピー・アイ・ナンバー1〜2」「ピー・アイ・ナンバー3〜4」とその姉妹系統からは「加賀ひかり」「ヤマヒカリ」「シモキタ」「あそみのり」など、 多くの奨励品種が育成された。最盛期には計8万ヘクタール余が栽培されている。

 数年後、北村の系統は本人の予期しなかったところで、ふたたび日の目をみた。彼の転出後、中国農試で稲育種を担当した鳥山國士(とりやまくにお)(後の農業生物資源研究所長)がこの系統に着目、 縞葉枯病抵抗性系統の選抜に利用する。

 ヒメトビウンカが媒介する縞葉枯病は暖地稲作の強敵。その強敵に対抗できる品種をつくろうと決意した鳥山が着目したのが、北村から受け継がれた日印交配系統だった。さっそく検定してみたところ、 パキスタン品種に「農林8号」を戻し交配した系統のなかに1系統だけ、劇的に縞葉枯病に強い系統がみつかった。昭和38年(1963)のことである。

 鳥山はこの系統を「エス・ティー・ナンバー1」と名づけ、これを交配親に初の縞葉枯病抵抗性品種「ミネユタカ」を育成した。「エス・ティー・ナンバー1」はさらに愛知県農試「青い空」「月の光」「朝の光」、 埼玉県農試「むさしこがね」などにも利用され、最盛期には全国で8万ヘクタールが栽培されていた。

駕籠(かご)にのる人、担ぐ人、そのまた草鞋(わらじ)をつくる人〉という慣用句がある。
このところ脚光を浴びる耐病性品種の陰に、こうして黙々と素材づくりに励んだ研究者のいたことも銘記しておきたい。北村はその後、北陸農業試験場作物部長を最後に退職。しばらく郷里長野市の女子大で教えていたが、 平成2年(1900)78歳で亡くなった。まじめな人柄だが、碁・麻雀・トランプが好きで、よく同僚や家族と興じていたという。

新・日本の農を拓いた先人たち(10)多くの育種素材を開発、水稲耐病性育種の陰の功労者、北村英一『農業共済新聞』2008年10月2週号(2005)より転載  (西尾 敏彦)


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